インド太平洋の枕詞が「自由で開かれた」なのか「安全で繁栄した」なのか。
「自由で開かれた」は安倍政権の創作、のはずである。なので日本の世界秩序観の現れのはずである。そうであれば大東亜共栄圏(重光は大東亜共同宣言と言っていたようだ。東條の案とはまったく違う。しかし軍部を懐柔するために是々非々で議論をしている様子が波田野論文でわかる。が、まとめきれない。)をすぐ思うかべる人は、重光葵の戦争問題研究会の存在を知っている人だ。
この件、誰も議論していないのでメモだけしておきたい。この「自由で開かれた」インド太平洋構想を実際に書いたの外務省の兼原信克氏であれば、なおさら重光の地域構想である大東亜共栄圏が「自由で開かれた」を目指して議論されてきた事はご存知のはずである。
この件を研究した手元にある波多野論文を三本再読した。
日本軍は「東亜の解放」と言いながら植民国を追い出して日本が盟主となるような行動をとった。問題は矢内原先生や信夫清三郎氏が指摘したように日本軍は植民とは何か?盟主になるとはどういうことか、科学的な理解がゼロだったのである。
そこで重光は軍部に取られた外交を外務省に取り戻すと共に、戦後の国際秩序を睨んだ「資源の解放」「自主独立」「平等互恵」などの概念と共に「開かれた」地域主義を目指したのである。これに対し軍部は資源の独占、閉じた地域主義を強行しようとした。
なので「自由で開かれたインド太平洋構想」が「大東亜共栄圏」の流れを汲んでいる、というのは込み入った説明が必要だし、理解してもらうのは難しいであろう。
一つ私がとっている方法は「1955年のバンドン会議に日本は呼ばれましたが欧米諸国は呼ばれていません。それは大東亜共栄圏構想が解放を目指したからです。」というもの。欧米人はぎょっとする。ウィキにも書いてある事実だが意外と知られていない。
本当は波多野先生の論文を丁寧に引用しながら書きたかったのだが、先にメモだけ書いておきたい。
「自由で開かれた」は「重光の」大東亜共栄圏の構想が背景にあるはずなのだ。