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バヌアツサイクロン被害支援<オンライン・バヌアツ講座>8

オンライン・バヌアツ講座、それなり見ていただけているようでやりがいがあります。特に玄人のみなさんに。

 

今まで書いて来た事 ー 

バヌアツの概要、その国名の由来とオーストロネシア語族の拡散、ラピタ土器の拡散とバヌアツの歴史が独立の根幹にある一方で、欧州の大航海時代にスペイン、フランス、英国がバヌアツを「発見」し、特にクック船長による現在のバヌアツ国家の枠組みが、一連の島々をまとめてニューヘブリデス諸島と命名し地図を作製する事で行われてきたことをまとめました。

途中歴史より時事問題を、との一部読者の声に応え、南シナ海仲裁判決で中国支持を表明したバヌアツ政府と中共プロパガンダ、そして主権を中共に売る行為 ー 4千冊のパスポート販売、人食いの歴史が百年前までは確実にあり、現実は「楽園」のイメージとは違う事を。

さらに前回は一歩前に進めようとミッチェナーのミュージカル「南太平洋」を紹介し、第二次世界大戦で連合軍の主要軍事基地であったバヌアツの話を書きました。

さて、ここでもう一歩と思っていましたが、ジェームズ・ミッチェナーの存在がバヌアツだけでなく太平洋全体の安全保障や地政学上も重要であることを、昨日ウェッブサーフィンをして知る事ができたのでまとめます。

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f:id:yashinominews:20200512082641j:plain Mari Yoriko Sabusawaさん

ミッチェナーのバイオを調べていたら、なんと彼は日系女性のMari Yoriko Sabusawaと三度目の結婚しているのです。バヌアツを巡る日米関係が気になっていたので、この事実に関心を持ちました。

ミッチェナーは1954年American Library Assocaltionで働くMariと出会い翌年結婚。過去2回の結婚はミッチェナーが単身赴任で長く家を不在にしていた事が主な理由な壊れたらしく、ミッチェナーはどこに行くにもMariを同行しています。ウェブ検索すると仲睦まじい写真がたくさん出て来ます。

ミッチェナーは両親がいない孤児として育ちました。勉強に励み教科書執筆の仕事の後、British Merchant Marinesで職を。その経験を生かし第二次世界大戦が始まると海軍に入隊。太平洋島嶼国の担当となるのです。ミッチェナーはバヌアツだけでなく、広く太平洋の島々に滞在しました。多分情報将校だったのではないでしょうか。

1980年にはカーター大統領代理でバヌアツ独立式典に参加。米国の戦後の対太平洋政策に関与していた可能性が想像できます。

 Mari Yoriko SabusawaはHarry and Riki Sabusawaの娘として1920年コロラドで生まれます。Harryはメロン畑の農家。Sabusawa一家は戦争が始まるとカリフォルニアの日本人収容所Santa Anita race trackからコロラドのGranada Relocation Camp に収容されます、がMariは収容所から解放されオハイオのアンティオキア大学で政治と国際政治を学び1945年に卒業。その後インテリジェンス機関で日本のプロパガンダ情報の翻訳業務に。なぜMariは収容所から解放されたのでしょう?両親はどうしたのでしょう?

Mariはシカゴ大学の大学院でrace relations - 今で言う民族研究でしょうか?を専攻しながらAmerican Library Assocaltionで働いていた1954年ミッチェナーと出会います。1956年のハンガリー革命では逃亡者を助けるためにウィーンに避難場所として二人の家を建て、米国への亡命を助けます。Mari自身も日米関係等活発に政治活動をし、ミッチェナーの作品、人生に大きく影響を与えています。

Sabusawa  という珍しい苗字。”苗字由来net”で調べると「現宮城県北中部と岩手県南東部である陸前国宮城郡寒風沢浜村が起源(ルーツ)である。」とのこと。

1994 年にMariが先に旅立ち、3年後ミッチェナーが続きます。

 

James A. Michener Returns to the South Pacific - YouTube

ミッチェナーはMariに出会う前から人種問題や異文化理解に関心があった様子が1986年のLos Angeles Times Magazineに寄稿した太平洋を再訪した記事から窺い知る事ができます。

第二次世界大戦中にサント島で出会ったフランス人植民者、ベトナムから連れて来られた労働者、サモアのアギー・グレイとの再会が書かれ、彼らとの出会い、即ち異民族、異文化との出会いがミッチェナーを小説家にした事が明らかにされています。

その中でも「南太平洋」でバリハイを歌うBloody Maryのモデルとなったフランス人女性と再会し、90代になった彼女がミッチェナーをしっかりと覚えていた事が書かれています。しかし、サント島で起った独立革命に失敗し、彼女が辛い生活をしている事も知ります。

ミッチェナーはこの再訪を懐かしい太平洋の思い出で終えたかったようですが、独立したバヌアツのリニ首相は社会主義国リビアに近付き、カダフィと共に反米を掲げ、独立の動きはニューカレドニア、チモールにも伝播。バヌアツで何十年も商売をしていた白人達はたった2日の有余を告げられ財産を処理し出て行かなければなりませんでした。

1980年の独立から40年前、日本から守ったバヌアツは反米・反白人の旗を掲げ彼らを追い出しました。しかし独立から40年後の今、自分たちだけではやっていけずに中国人に主権を、パスポートを4千冊も売っています。

次回は70年代の独立の動きを書きます。

 

<参考資料>

JAMES MICHENER'S RETURN TO THE SOUTH PACIFIC

https://www.washingtonpost.com/archive/lifestyle/travel/1987/01/11/james-micheners-return-to-the-south-pacific/5821983a-8a00-4dd6-9c69-ce17455301a2/

 

An Inventory of the James A. Michener Papers Home Collection: Mari Michener

https://web.archive.org/web/20131029202325/http://library.unco.edu/archives/PDF/SC_1_31_S20_Mari.pdf

 

<追記> 切手ありました。

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