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バヌアツサイクロン被害支援<オンライン・バヌアツ講座>9

ミッチェナーが44年ぶりにバヌアツのサント島に戻った時の紀行文を前回紹介しました。そうしたらサント島のマユミさんの友人がその時の動画をアップしてくれました。

まさか、と思いましたが紀行文にも出て来る小説「南太平洋」のBloody Maryのモデルとなった女性、フランス人植民者が最後に出て来ます。

彼女はバヌアツの独立で全てを失いました。息子さんも失ったようです。島の人に助けられながら生活しています。

彼女に何があったのでしょうか?

バヌアツの独立の動きの中で、サント島で起った反乱はバヌアツの国体を理解する重要な事件です。

1980年の7月に主に英国の支持を受けてバヌアツは独立しますが、同年1月にサント島のナグリアメル党が現地フランス人植民者の支援を受け独立を宣言します。その背景には英国の主導で進められたバヌアツの独立に対するフランス政府の反発があります。バヌアツは1906年から英仏共同統治がされて来ましたが、土地を所有しプランテーションを経営するのは主にフランス人でした。独立で失うものが多いのはフランス人なのです。

それだけではありません。この分離独立の背景にはアメリカの土地成金でリバタリアンのフェニックス財団がいて資金援助をします。この財団はトンガの環礁を埋め立ててミネルバ共和国を1972年に宣言しています。そしてフランス軍の手配で300近い武器がサント島に持ち込まれたのです。

軍隊のないバヌアツ。武装した反乱の動きを止める手段がありません。リニ首相は英仏に支援を求めますが、中立の立場から断られます。(ってフランス政府が裏で糸を引いた反乱でしたし)そこでリニ首相は先に独立していたパプアニューギニア軍の支援を求めます。

ここで悲劇が起ります。ナグリアメル党の党首、分離独立を宣言しヴェマラマ国首相となったジミー・スティーブンの息子がパプアニューギニア軍に撃たれて死亡するのです。ジミーはこれで分離独立、反乱放棄を宣言。ジミー自身は父親スコットランド人、母親がトンガ人です。

ミッチェナーの友人のフランス人女性の息子さんはこの分離独立運動に参加していました。反乱の失敗で彼女は全てを失う事になってしまったのです。

f:id:yashinominews:20200513201439j:plain ナグリアメル党党首・ヴェマラマ国首相ジミー・スティーブン

サント島の分離独立を巡るフランス政府、米国のリバタリアン、現地のフランス人植民者、そしてバヌアツ内部闘争。まさに中国が現在太平洋で展開している外交と同じではないでしょうか?分離独立の動きは太平洋中どこにでもあります。

特に数百の言語があるメラネシア地域はどこも不安定な政情が続いています。パプアニューギニアは900の言語が、ソロモン諸島、バヌアツは100前後、ニューカレドニアは30近い言語グループが。分離独立を仕掛けるには絶好の場所です。