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東亜の解放 石原廣一郎

ソロモン諸島と日本の関係を調べる中でニューカレドニアをはじめとするメラネシアへの移民の動きを改めて関心を持った。数千人規模で移民しているのである。ソロモン諸島にも20人という数字がある。

1899−1941年の移民数

ニューカレドニアには5000人

オーストラリアに4000人

ニュージーランドに1000人

タヒチに500人

フィジーに90人

石川 友紀 オセアニアにおける日本人移民の歴史と実態--ニューカレドニア移民を中心に

から

 

以前読んだ日本人移民の白人社会での苦労、人種差別はひどいものであった。白人への恨み、憎しみは、軍事ではなく、経済的な南進を進めた日本人の中から生まれたはずである。

気になって今読んでいるのが

石原廣一郎小論 -その国家主義運動の軌跡- 赤澤史朗

ここに順次メモを書いて行きたい。 良くも悪くもこんなに影響力が人物だとは知らなかった。

 

2.26に石原の資金が使用され、石原は軍部と距離を置く。「東亜の解放」を目指した個々の日本人の複雑な関係が見えてくるようだ。。

距離を置かれた軍人、栗原安秀は石原を恨む。力を持っても金をとってやるとまで。。

他方、石原は近衛との関係を深める。近衛も石原の南進論に興味を示す。

二節は排英運動に関して。日中戦争に対する冷静な分析が印象深い。日本は中国軍には勝てない。

 

東久邇宮との近さ。も気になる。軍部に反発する大東亜共栄圏構想。東條から暗殺される可能性を察していた。

 

石原の政治活動の第一の特徴は、一方でファッショ的な大衆運動やその組織に肩入れして資金提供をおこない、自からもその指導者の一人となりながら、同時に他方で特定の中枢的人物と結びつき、その人物に献言しその人物を担ぐ形で政治活動をおこなっていることである。その特定の中枢人物とは、荒木貞夫陸相であり、近衛文麿であり、末次信正であり、東久邇宮であった。

 

 

石原広一郎|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館  より

生没年
明治23年1月26日 〜 昭和45年4月16日
1890年1月26日 〜 1970年4月16日)
出身地
京都府
職業・身分
実業家

大正2(1913)年立命館大学を卒業後、5年マレー半島に渡り、鉄鉱山を開発。9年南洋鉱業公司(後の石原産業)を設立。事業を拡大し、海運業、フィリピンなどの鉱山開発、精錬業にも進出。第二次大戦中は南洋資源に関係して戦時利潤を上げ、石原コンツェルンを築いた。事業の一方、神武会や明倫会など国家主義団体に資金を提供、支援。二・二六事件では反乱幇助の嫌疑で逮捕、起訴されたが、無罪となった。戦後、A級戦犯容疑で拘留(不起訴釈放)、公職追放を受けたが復帰し、財閥解体後の石原産業の社長、会長を長く務めた。