インド太平洋研究会 Indo-Pacific Studies

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片桐康夫著『太平洋問題調査会の研究』その3

3月23日の第1回オフライン研究会

「太平洋問題調査会とコミンテルン — VENONA文書から読み解く」

に向けて「太平洋問題調査会」とは何のか?片桐康夫著『太平洋問題調査会の研究』から少しずつ紹介しています。

政治性を排除したIPRを目指していたものの、第一回ハワイ会議は1924年に米国が発効した排日移民法で日米関係が緊張していた翌年1925年に開催された。この会議に向け日本はベストアンドブライテストを集めた国内研究会を事前に何度も開催し、用意万端。米国はじめ参加者に日本の立場を十分伝える事となった。と、IPRを政治的方向に向けたのは日本ではないか、と思えるのだが。。

第二回IPRハワイ会議は1927年に開催。国際連盟、英国チャタムハウスからも初参加があった。そのイギリスが移民問題が中心議案であった同会議の予定を直前に変更し、中国問題を第一議案としたのである。そしてIPRは中国をめぐる政治的な組織に方向が転換される。ここでコミンテルンは関係していないのだろうか?

第三回IPR京都会議は国際連盟から戻った新渡戸が日本代表として議長を務めた会議だ。ここで中国代表は田中上奏文を出そうとするが、日本側のロービーイングで一応は抑えている。片桐論文で非常に興味深いのは満州問題を担当していた蠟山政道が中国側にわざわざ満州問題を京都会議で取り上げるよう提案していた事である。これに刺激を受けて遠い満州に関心もなかった嶺南大学が満州問題研究会を立ち上げたのだ。そこには排日主義が生まれ、その方向で中国は京都会議に臨むである。片桐先生はこの蠟山の動きを深くは追っていない。一体蠟山は何を考えてそのような余計なことをしたのであろうか?

さらに第二回と第三回の会議を隔てた要因に主に日米間を扱ったショットウェルの「恒久平和条約案」があった。これは日本側はとても受け付けられない偏った内容であった。この恒久平和案をめぐる日米の動きを巡った片桐教授の指摘が印象的だ。以下引用する。

「IPRの会員に象徴される日本の自由主義的知識人は、概して行動力の欠如下閉鎖的エリートもしくはアリストクラティックな性格を有し、大衆とは一線を画する存在であった。」

 

IPRが日本を追い詰めていく組織なった背景には日本側の責任も多分にあるのではないか。

この後上海での第四回会議、カナダ・バンフでの第五回会議に新渡戸は日本代表で参加する。しかしそのカナダの会議の後、ビクトリアで新渡戸は客死するのだ。私は本物の毒を盛られた訳ではなかろうが精神的毒は盛られたであろう、と書いたことがある。片桐先生は新渡戸がバンフ会議で精神的にも肉体的にも疲労困憊し客死したことはIPRと日本の前途を暗示している、と結んでいる。

以上、片桐論文はそれぞれの会議を詳細に追っている。私は飛ばし読みで軽くまとめただけだ。もし歴史的背景や当時のコミンテルンの動きがわかっていればこれらの情報と重ねてIPRが裏でどのように動いていたのか見えて来るであろう。

あまり役に立っていないかもしれないが、最後に日中関係を悪化させる結果を招いた英国に関する片桐論文を紹介して終わりにします。