3月23日の第1回オフライン研究会「太平洋問題調査会とコミンテルン — VENONA文書から読み解く」に向けて「太平洋問題調査会」とは何のか?片桐康夫著『太平洋問題調査会の研究』から少しずつ紹介してみます。
早稲田大学アジア太平洋研究センター発行、リサーチ・シリーズ6号に片桐先生の「第10章 私の太平洋問題調査会研究履歴」という小論があります。ウェブでアクセスできます。
http://hdl.handle.net/2065/48196
片桐先生が若き研究者であった40年ほど前、日本の運命を大きく左右したはずの「太平洋問題調査会」に関してはそれほど研究がされていなかったことが研究動機の一つだそうです。
片桐先生が慶応の博士課程学生で、麻布の外務省外交史料館で編纂事務局スタッフの一員として働いている時にIPRの資料に接する機会があったのだそうだ。
IPR研究の中で関心を持った人物が渋沢栄一と新渡戸稲造であったという。新渡戸稲造に関する本も出版されている。
「それは,民間レヴェルの IPR研究であればこそ見出し得たことであるが,IPR を巧みに利用したイギリス外交の現実主義の極みとでもいえる対中政策の変更によって対中関係の改善に成功したことである。その背 景には,イギリス外務省の意向を受けたイギリス IPR 代表のフレデリック・ホワイトが中国IPR 側と折衝し,その報告をイギリス外務省に伝えたことがある。ホワイトは,中国側から高く評価され,1929‒32 年に中華民国政府政治顧問に登用されている。
残念なことに,その結果として,イギリスに代わって日本が中国民族主義の標的とされる ことになった。それに対して日本はイギリスを範とする外交を展開出来ず,逆の対応を示し た。そのことが 1930 年代に至って日中戦争,日米戦争への道程を歩むというお粗末を演じ ることに繋がる。」