インド太平洋研究会 Indo-Pacific Studies

現代版IPR インド太平洋研究会へようこそ

“free and open” OR “secure and prosperous”

2017年、2つの議連勉強会に呼ばれた事をきかっけに、安倍政権のインド太平洋構想に関わる機会を得た。その流れで、評論家の江崎さんからしっかりフォローせよとの、一種の命令、が下され、インド太平洋研究会を立ち上げた。と言っても緩やかな集まりで組織にはなっていない。

ここに江崎さんはじめ錚々たるメンバーがアドバイザーを受けてくださり、その一人が水産庁とのドンと呼ばれている、水産研究所理事長の宮原正典氏である。拙著『インド太平洋開拓史』に推薦文を寄せていただいた。宮原さんとの出会いはまた別の機会に書くとして、色々と貴重な情報をいただいている。

菅政権になってから「自由で開かれた」インド太平洋が「安全で繁栄した」に変わる様子があった。この事を批判的に書いた英文の記事を送っていただいた。

 

「自由で開かれた」と「安全で繁栄した」の違いは手段と目標の違いである、と解釈できよう。少しウェブ検索をしたがその視点で議論している文章は見当たらなかったのでここで少し議論してみたいと思う。

これは開発学でも重要な視点なのである。開発目標をGDPなどの数値目標に取るケースがあるが、その事が開発に直結するのか?という疑問。そもそも開発とは何か?という疑問。実はこの事が私の博論の理論枠組みであった。そこで応用したのがアダム・スミスの議論を基盤に展開したアマルティア・センの『自由と経済開発』である。

選択する自由、選択した事を成し遂げる自由。

「自由」に関する議論はここではしないが、 GDPの数値目標よりも、目標を自分で決められる自由、その目標をかなえる自由があるか?という理論だ。Capability Approach という。

よく例に出されるのが、奴隷となった女の子。その子が学校に行きたいと思える自由があるか?もし学校に行きたいと思った時、学校に行ける自由があるか?

「自由で開かれた」とは、個人、コミュニティ、国家、企業等等あらゆるアクターが自由に目標を選べて、開かれた環境、即ち特定の人に特定の利益供与がされるわけではない環境、手段が提供されている状態である。この状態を維持することの方が、繁栄を追い求めることより重要なのだ。それに人間は「繁栄」を常に追い求めるのであろうか?「繁栄」は悪いことではないが、状況により繁栄よりも現状維持、時には後退を望むこともあるのではないだろうか?

「安全で繁栄した」というのは、途中のプロセスを抜かした結果、目標でしかない。「安全」を求めている人もいるかもしれないが「安全」である状況は人によって、社会によって違う。また「繁栄」も同じだ。違法活動で得る「繁栄」もあれば、弱者を蹴落とし見捨てる「繁栄」もある。

 「自由で開かれた」と「安全で繁栄した」は単なる言葉の違いではなく、手段と目的の違いであり、国際社会の秩序を示す重要な概念の違いなのである。共産主義国家の中国が目指すのは自由も開かれた社会でもない環境の中で、特殊な一部の人たちの安全と繁栄しか守られていないのである。

(自分の博論のテーマなのにうまくまとまりませんでした。)