インド太平洋研究会 Indo-Pacific Studies

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<1月8日のオフセミに向けて>戦後の日本漁業を左右したGHQ

<1月8日のオフラインセミナーに向けて>(後数席です)

ips.hatenablog.jp

 

第二次世界大戦後の1949年に新たに制定されたこの漁業法では、「漁場を総合的に、また高度に利用する」ことと「漁業の民主化」の2つがその目的とされました。」

https://www.wwf.or.jp/activities/opinion/3814.html より

 

日本の水産庁ができたのが1948年。

漁業法が成立したのが1949年。

まさに占領下、そして共産主義の嵐が吹き荒れる中での日本の水産体制づくりが進みました。

 

以下、「水産庁50年史」の第2章、占領下の水産行政を参考にまとめます。

 

同書では1945−1952年の占領下は特殊な水産行政であった、と書かれています。どのように特殊だったのか?
背景として「危機的な様相を帯びた食糧不足の状態」であり、水産業の復興はまさに日本の生命線だったわけです。その中で、漁区の制限と漁船建造の制限がGHQによって行われました。小野寺元防衛相の論文を思い出せば太平洋に拡散する日本漁船こそが米豪にとって脅威で戦争の導火線でもあったのだから当然でしょう。

GHQが当初から計画していたのが農地改革と同様な漁業の民主化。しかし日本の特殊な漁業制度から農業とは異なる制度となった、とあります。この動きは複雑でここではまとめきれません。しかし「漁業」と「民主化」のキーワード検索したら出て来た次の論文を少し紹介。

田口さつき「わが国の沿岸漁業の制度と漁業の民主化」定期刊行物 『農林金融』2018年04月号第71巻第4号通巻866号 2~20ページ
https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n1804re1.pdf

 

この論文の中で次の箇所が面白いです。

日本漁業の民主化を進めようとしたGHQ

「しかし,これにソ連が強い共感を示したことで,米国は警戒した。 その後,GHQは自ら漁業を営む者が漁業権 を保有するべきという考えから漁業権の自営者優先と個人自由主義を水産局に強く提案するようになった。」

ざっと書くと米露のせめぎ合いあの中で日本漁業制度が形成された様子が見えて来ます。共産革命も怖いですが、米国の日本改造も怖ろしい話だったのでは?その中で日本はしたたかに軌道修正してきた、とも言えるのでは?

 

再び「水産庁50年史」に戻ります。1952年になってマッカーサーラインが消え日本漁業は沿岸から沖合へ、沖合いから遠洋へと発展。しかし李承晩ラインを始め世界に進出する日本漁船は各国から規制を受け様々な漁業協定が締結されていきます。最大のものが200カイリを制定した海洋法条約でしょう。日本は世界の海から締め出され遠洋から沖合へ、沖合いから沿岸へ、そして栽培漁業へと。

 

水産庁50年史」には水産庁の設置がGHQの要望であることは書かれていませんが、他の資料にあったのでこれは後で。

農林省の一局ではなく独立した組織をという声は戦前からあり、水産庁の設置となりました。これに反対したのが漁船と漁網利権を巡った運輸省。最初の水産庁長官はなんと民間の漁業者。水産庁設置後にGHQが要求していたのが研究機関の設置。これこそが1月8日のセミナー講師、宮原氏が理事長を務める水産研。

世界に誇る、米国にすらないような水産研究機関ができました。水産庁水産庁の取締船、そして水産研の存在、さらに米国政府の関与を米国政府、大使など誰も知らないのです。目を丸くして聞いてくれます。